|
ロシア公演のお話
平成13年(2001)3月5日より19日までの2週間、14回目となる海外公演を、ロシア・ウクライナにおいて行った。今回訪問の切っ掛けは、ソ連崩壊後毎年ロシアに出かけ、いくつかの大学にて日本の文化や宗教について講義を行ってこられた、曽山俊天理教陸牧分教会長の要請によるものである。曽山氏は、現地のかたがたの日本文化に対する関心の高さに、雅楽を紹介したならきっと喜んで頂けると確信、雅楽部へ公演の依頼となった。それから遡ること3年、平成10年のことである。
21世紀の最初の年である2001年に挙行すると決め、講義を行っている大学等の機関に話をしたところ、10以上もの大学・機関が来て欲しいとの受入の申し出があった。2000年の9月には、顧問の佐藤が、曽山氏の案内を受けて現地を視察、会場と日程の詰めを行った。その結果、全体の受入をモスクワ大学の学長が副委員長を務めるロシア21世紀委員会が行うことになり、ロシアではモスクワ、カルーガ、サンクトペテルブルグの3都市4会場、ウクライナではキエフ、オデッサの2都市で演奏することになった。モスクワは、モスクワ大学、モスクワ言語大学、モスクワ人文大学、モスクワ音楽院の4ヶ所から申し出があったが、4校が協力してモスクワ大学一校にて2回公演を行うことになった。4校の仲介を、ロシアアカデミーのイリョーミンさんがとって下さることになった。強い公演要請のあった、リュボフ、エカテリンブルグとミンスクは、次の機会にと断念せざるを得なかった。
出発まで
正式の招聘状が学長宛に各地から届き、学長からは応諾の返事を出して頂き、着々と準備が進められた。演奏曲目は、海外公演でこれまで演奏してきた管絃は平調の「越殿楽」「陪臚」、謡物として、催馬楽「更衣」、舞楽は「納曾利」と「太平楽」と決まった。現地との連絡は、ことごとくインターネットによるメイルで済まされた。手紙やFAXでのやりとりであった前回までと隔世の感がある。ロシア旅行社と東急観光とで飛行機や宿舎、ビザの手配がなされた。お土産としていつも持参している「抜頭」の面の製作に紋郎美術工芸へも出かけた。ロシア語の手紙やパンフレットの翻訳に、ロシア学科の小畠、ボンダレンコ、日野の各先生方のお力をお借りした。河東駐ロシア全権公使の挨拶文も送られてきた。これらの手配には、大使館の栗原さんにお世話になった。キエフの受け入れ先である極東慈善財団のポピク会長からは、3日をあけずにメイルがやってくる。力の入れようが分かる。旅行参加者も、顧問の佐藤を団長として、現役22名にOBの谷内さん、須田さんが参加、道友社より記者として川島さん、映像として井筒さん、穀本さん、カメラマンとして家田さんの計4名の同行取材が決まり、看護師として佐藤晴美さん、添乗員としてロシア旅行者より天理大学ロシア学科卒業生である田中美穂子さんが、いずれもボランティアで参加してくださることになった。案内役は曽山氏、さらに大学とロシア学科の好意により、日野貴夫助教授が同行してくださることになり、総勢33名となった。
輸送、宿泊の手配もあらかた整った。約1トンにも及ぶ荷物の超過料金については、アエロフロート国際航空の日本支社を田中さんの案内で訪ね、セレダ支社長、ブリノフ副支社長と面会、出来る限りの協力を約束してくださった。いつもながらOBの梶谷さんの協力を得て、持参するロシア語、ウクライナ語、英語のパンフレットが完成した。経費については、殆どが学生の自前であるのはいつもと変わらないが、多くの方のお心寄せを頂戴した。
後は出発を待つのみとなり、毎日の練習にも力が入った。トラベルはトラブルがつきもの、三つ問題が起こった。ロシアのビザがなかなか発給されないこと、モスクワでの公演準備が進んでいないこと、同行予定の日野先生が足を怪我されたことである。日野先生は、出発までにギブスをはずせるようにとそれこそ骨を折って下さったが、雪道での松葉杖は危険なので断念せざるを得なかった。しかし、この問題は、日野先生と田中さんの共通の友人でもある通訳のスペシャリスト、セルゲイさんがロシア・ウクライナの全日程を同行してくださることになり、しかも経費は、現地の友好協会へ申請して旅費分を援助してくださることになったので解決した。モスクワの問題は、現地へ出かけてみなければ分からないところもあり、イリューミンさんにお願いしたのだからだと、結果待ちにした。一番の問題は、ビザである。ビザが下りたのは出発の前日、しかも新潟の領事館でである。結局、余分な料金を払うことになった。ロシア旅行社の添田さん、田中さん、東急観光奈良支店長の萩原さん、小川さんに代わって担当となった林さん、さらに橋本学長までにも気を揉ませ、お世話になった。
|